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3月25日(金)・・・安全だったはずの小学校 思い出の品、今も捜す校長

北上川沿いに立っていた宮城県石巻市立大川小学校。津波は川をさかのぼり、子どもたちをのみ込んだ。「あの日」から、2週間。多くの児童と教員を失った校長は、子どもの姿を求めて避難所を回り、全壊した校舎を訪れては、思い出の品を今も捜している。

 児童108人のうち、無事が確認されたのは31人。21人は遺体で見つかり、56人は安否が分かっていない。学校にいた教職員11人のうち、助かったのは男性教諭1人だけだった。柏葉照幸校長(57)は午後から年休で不在だった。

 地震のあと、子どもたちは通学用のヘルメットをかぶり、校庭に整列していた。「点呼をしていた。避難しようとしてたんじゃないか」。地震の後、2人の孫を同校まで迎えに行った男性は言う。避難所にも指定されている小学校は、安全な場所のはずだった。

 そこへ津波が来た。北上川を河口から5キロもさかのぼり、小学校の屋根を越えた。

 学校への道は通れなくなり、親たちは何が起きたか分からなかった。

 「孤立しているけれど、大丈夫だと聞いていた」。佐藤すえ子さん(37)は、長女の未空(みく)さん(6年)、長男の択海(たくみ)君(3年)が翌日には戻ると思っていた。「寒い中、一緒にいてあげられないなんて」。停電の闇の中、眠れないまま朝を迎えた。

 だが翌日、子どもたちの遺体が見つかり始めた。22日までに、山の方で未空さんが、校内で択海君も見つかった。小学校のさらに上流でも家は水没し、近くの郵便局も駐在所もすべてが流されていた。

 18日には卒業式が開かれる予定だった。震災の前に未空さんの中学の制服が届き、「似合うかな」と話していた。結局、袖を通さないまま、服だけが津波を免れた高台の家に残った。
 「地震が起きたのが土曜か日曜だったら。津波がくるのがもう1時間遅かったら……。みんな家に帰っていたのにと思うと悔やみきれない」

 あの日、柏葉校長は、大きな揺れのあと、すぐ学校に向かった。だが、堤防の上の道路は決壊で消えており、たどりつけなかった。

 地震から2週間。子どもたちの持ち物が、次々と掘り出された。波の引いた橋のたもとに、ランドセルやヘルメット、習字道具、アルバムなどが集められている。未空さんの写真と択海君の作文も出てきた。そして、小さな遺体も1体、また1体と見つかっている。

 毎日来ているという男性(42)は、長女(6年)と長男(3年)が同校に通っていた。遺体で見つかった娘は、中学入学を前に、祖父母から自転車を贈られて喜んでいた。「でも、1回しか乗せてあげられんかった」。ヘルメットが見つかった息子の行方は今も分からない。

 寒さが少しゆるんだ24日も、柏葉校長は倒壊した校舎の土砂をかき分けていた。ひしゃげた教員用のロッカーから、女性もののジャケットが出てきた。用務員の女性と「さやか先生のよ」「そうだね」と言いながら、大事そうにくるんで持ち出す。

 「きれいな学校だったんですよ」。柏葉校長はうつむいて話す。「子どもたちが笑顔をどう取り戻せるだろうか、と思うんです。子どもたちの居場所になる場所をつくってあげたいんです」と言う一方で、「あの日から何日たったのかなんて、よく分からないんです」とも。

 約10キロ離れた同市立飯野川第一小では、大川小の仮の職員室や教室が置けるようにと検討がすすんでいる。でも、心は新学期に向かわない。これからも校舎のあった場所へと向かうつもりだ。(荻原千明)
by nsmrsts024 | 2011-03-25 05:34 | 朝日新聞・綜合、政治

千年に一度の巨大津波と原発事故による核災害


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