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1月6日(日)・長寿世界一日本、長生きして楽しみ喜ぶ人、迷う人、困る人、迷惑かける人、分からない人

[都外施設入居、4年で2.6倍 23区の生活保護高齢者]
【伊藤弘毅】東京23区で生活保護を受けながら、都外の高齢者施設に入居している人が、昨年10月現在で約1800人に上っていることが、朝日新聞の調べでわかった。2009年1月の約2.6倍になっていた。

 同年3月に群馬県渋川市の無届け高齢者施設「静養ホームたまゆら」の火災で東京都墨田区からの生活保護受給者ら10人が死亡。介護や生活支援が必要だが、身寄りがなかったり親族に頼れなかったりする高齢の低所得者が、行政の仲立ちで東京から近県の施設に送られている実態が問題化した。生活保護に頼る低所得の高齢者が増え続ける一方、地価が高い都内では受け皿となる施設の整備が進まず、こうした傾向はむしろ拡大している。

 23区から昨年10月現在の状況を聞き取り、都の調査記録が残る09年1月、10年6月と比較した。

 23区から生活保護を受けながら高齢者施設に入居している人は2870人。09年調査(977人)の約2.9倍、10年調査(1401人)の約2倍だった。

 このうち都外の施設の入居者は1785人と6割以上を占め、09年(696人)の約2.6倍、10年(1029人)の約1.7倍だった。














3.11東日本大震災と福島第一原発爆発事故から1年と9ヶ月
千年に一度の巨大津波と66年後にまた起きた人間が発する核災害の記録
(東日本大震災と放射能人災からの1年間を顧みる)


[2011年3月25日]・・・安全だったはずの小学校 思い出の品、今も捜す校長
北上川沿いに立っていた宮城県石巻市立大川小学校。津波は川をさかのぼり、子どもたちをのみ込んだ。「あの日」から、2週間。多くの児童と教員を失った校長は、子どもの姿を求めて避難所を回り、全壊した校舎を訪れては、思い出の品を今も捜している。

 児童108人のうち、無事が確認されたのは31人。21人は遺体で見つかり、56人は安否が分かっていない。学校にいた教職員11人のうち、助かったのは男性教諭1人だけだった。柏葉照幸校長(57)は午後から年休で不在だった。

 地震のあと、子どもたちは通学用のヘルメットをかぶり、校庭に整列していた。「点呼をしていた。避難しようとしてたんじゃないか」。地震の後、2人の孫を同校まで迎えに行った男性は言う。避難所にも指定されている小学校は、安全な場所のはずだった。

 そこへ津波が来た。北上川を河口から5キロもさかのぼり、小学校の屋根を越えた。

 学校への道は通れなくなり、親たちは何が起きたか分からなかった。

 「孤立しているけれど、大丈夫だと聞いていた」。佐藤すえ子さん(37)は、長女の未空(みく)さん(6年)、長男の択海(たくみ)君(3年)が翌日には戻ると思っていた。「寒い中、一緒にいてあげられないなんて」。停電の闇の中、眠れないまま朝を迎えた。

 だが翌日、子どもたちの遺体が見つかり始めた。22日までに、山の方で未空さんが、校内で択海君も見つかった。小学校のさらに上流でも家は水没し、近くの郵便局も駐在所もすべてが流されていた。

 18日には卒業式が開かれる予定だった。震災の前に未空さんの中学の制服が届き、「似合うかな」と話していた。結局、袖を通さないまま、服だけが津波を免れた高台の家に残った。
 「地震が起きたのが土曜か日曜だったら。津波がくるのがもう1時間遅かったら……。みんな家に帰っていたのにと思うと悔やみきれない」

 あの日、柏葉校長は、大きな揺れのあと、すぐ学校に向かった。だが、堤防の上の道路は決壊で消えており、たどりつけなかった。

 地震から2週間。子どもたちの持ち物が、次々と掘り出された。波の引いた橋のたもとに、ランドセルやヘルメット、習字道具、アルバムなどが集められている。未空さんの写真と択海君の作文も出てきた。そして、小さな遺体も1体、また1体と見つかっている。

 毎日来ているという男性(42)は、長女(6年)と長男(3年)が同校に通っていた。遺体で見つかった娘は、中学入学を前に、祖父母から自転車を贈られて喜んでいた。「でも、1回しか乗せてあげられんかった」。ヘルメットが見つかった息子の行方は今も分からない。

 寒さが少しゆるんだ24日も、柏葉校長は倒壊した校舎の土砂をかき分けていた。ひしゃげた教員用のロッカーから、女性もののジャケットが出てきた。用務員の女性と「さやか先生のよ」「そうだね」と言いながら、大事そうにくるんで持ち出す。

 「きれいな学校だったんですよ」。柏葉校長はうつむいて話す。「子どもたちが笑顔をどう取り戻せるだろうか、と思うんです。子どもたちの居場所になる場所をつくってあげたいんです」と言う一方で、「あの日から何日たったのかなんて、よく分からないんです」とも。

 約10キロ離れた同市立飯野川第一小では、大川小の仮の職員室や教室が置けるようにと検討がすすんでいる。でも、心は新学期に向かわない。これからも校舎のあった場所へと向かうつもりだ。(荻原千明)
by nsmrsts024 | 2013-01-06 06:59 | 朝日新聞・綜合、政治

千年に一度の巨大津波と原発事故による核災害


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