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2017年4月3日(月):永六輔さんの大往生 「僕の状態、そんなに悪いの?」

永六輔さんの長女でエッセイストの千絵(ちえ)さん(58)のもとに、父親から珍しく電話がきたのは2010年11月17日の夜だった。

 「僕、今、どこにいると思う? 実はね、救急車に乗ってるの」

 千絵さんは驚いて、「どうしたの?」と問いかけた。

 永さんは東京都内でタクシー乗車中に衝突事故に遭い、警察官に「大丈夫」と伝えたものの、救急車を呼ばれたという。弾んだ声で話す永さんは、初めて救急車に乗るのを楽しんでいるようだった。

 搬送先の病院で頭部などの検査を受けたが異常はなく、その日のうちに帰宅できた。

 当時、パーソナリティーを務めていたラジオ番組でもこの経験を話題にした。

 「事故に遭ってから、パーキンソン病の症状がよくなったって言われるんです」

 患っていた自身の病気と絡めて、笑いを誘った。

 永さんは08年ごろから、足のすくみや字の書きづらさ、箸の持ちにくさを感じるようになっていた。ろれつが回らなくなり、リスナーから「声が聴きづらい」というはがきが届いた。

 事故の1カ月ほど前、荏原病院(東京都大田区)神経内科を受診し、横地正之(よこちまさゆき)医師(75)=現在は国際医療福祉大学三田病院=にパーキンソン病と診断された。

 薬を飲み始めると、言葉がなめらかになり、字もふつうに書けるようになった。歩く時に、体が前のめりになって足が小刻みに出てしまう「突進歩行」も改善した。

 横地さんからは「歩くことはいいことです。ただ、転倒にはくれぐれも注意を」と言われていた。

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 「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」の作詞で知られ、1994年には自らの死生観を記した「大往生」(岩波新書)がベストセラーになるなど、多方面で活躍した永さんは83歳だった昨年7月、自宅で亡くなった。

 ラジオ番組の中で、前立腺がんでホルモン療法を受けていることや、パーキンソン病であることを公表した。

 永さんは「大往生」の中で、自身に宛てた「弔辞」として、こう記している。

 〈旅暮らしの中で、一番好きな旅はと聞かれ、「我家(わがや)への帰り道」と答えた永さんです〉

 千絵さんは、病気になっても、父はできるだけ家で過ごしたいと思うだろうと考えていた。

■妻みとった訪問看護師に連絡

 永さんが再び救急車に乗ることになったのは、事故から約1年後の11年11月。

 自宅で転び、足の付け根にある「大腿(だいたい)骨頸(けい)部」を骨折した。高齢者の骨折で最も多い場所で、寝たきりの原因にもなりやすい。運ばれた病院に入院することになった。

 入院中、「せん妄」が出た。認知機能に異常がないのに、意識がもうろうとして、意味が通らないことを口にする症状だ。高齢者が入院した時などにしばしばみられる。

 足の骨が折れているのに「はいっ、帰ります!」と突然言いだし、ベッドから立ち上がろうとした。用もないのに、ナースコールを繰り返したこともあった。

 約2カ月後に退院すると、仕事で外出する際は、車椅子を使うようになった。千絵さんは、ひとり暮らしをする永さんに朝食を食べさせるため、毎朝、実家へ通い始めた。食事は、妹でフリーアナウンサーの麻理さん(55)が作り置きしておいてくれた。

 午前8時すぎに千絵さんが実家に着くと、永さんはリビングでテレビを眺めていることが多かった。「おはよう」と声をかけると、永さんは「大丈夫だから、来なくてもいいよ」と娘を気遣った。

 千絵さんが食卓に朝食を並べながら「薬を飲むんだから、ちゃんと食べて」と頼むと、しぶしぶ席についた。

 14年には背骨の圧迫骨折もわかり、次第に家の中の移動にも家具につかまらないと、難しくなった。

 その年の夏、千絵さんは家族のほかに、父の面倒を見てくれる人を探そうと考えた。ただ、見ず知らずの人を家に入れるのはためらわれた。「『永六輔は、家ではこんなによぼよぼのおじいさんなのか』と驚かれるだろうな」と想像すると、踏み切れなかった。

 浮かんだのは、02年に永さんの妻の昌子(まさこ)さん(当時68)をがんでみとった際、訪問看護をしてもらった鈴木紀子(すずきのりこ)さん(65)だった。

 鈴木さんがあいさつに訪れると、永さんは不安そうにこう尋ねた。

 「僕ってもう、そんなに悪い状態なの?」

 鈴木さんの登場は、妻の時と同じように、最期が近いのかと感じたようだった。(宮島祐美)

     ◇

 〈えい・ろくすけ〉 本名・永孝雄。1933年、東京・浅草生まれ。早稲田大学中退。中学生の頃からラジオ番組に投稿を始め、大学時代から放送に携わる。「見上げてごらん夜の星を」「遠くへ行きたい」などの作詞を手がけ、著書「大往生」は発行部数が245万部に達した。2010年、パーキンソン病と診断された。ラジオ番組「永六輔の誰かとどこかで」(TBSラジオ系)は通算で49年続いた。



寄付者19人から話を聞いた「安倍晋三記念小学校」名での振り込みも 籠池氏の言動聞き、期待は失望に… 
 産経新聞社は2日までに、学校法人「森友学園」(大阪市)が開校を目指していた小学校建設のために寄付した19人から話を聞いた。うち1人は籠池氏が「安倍晋三記念小学校」の名前で寄付を募っていたと証言した。大多数が学園の教育理念に賛同して寄付に応じたが、理事長だった籠池泰典氏の証人喚問などでの発言に落胆していた。

 産経新聞は、森友学園に寄付した個人や法人など60以上に取材を申し込み、うち19人から証言を得た。証言者の多くは平成27年春から秋にかけて寄付に応じていた。籠池氏は「27年9月5日に安倍昭恵首相夫人から100万円の寄付を受けた」と証言しており、この時期に集中的に寄付を募っていた公算が大きい。

 19人のほぼ全員が、森友学園の教育理念に共感したことを寄付の動機としてあげた。森友学園が、系列の幼稚園などで園児らに教育勅語や論語を暗唱させ、礼儀作法を重視していることをアピールしたことが奏功したとみられる。


だが、今年2月に国有地払い下げ問題が明らかになり、籠池氏の言動が注目を浴びると、期待は失望に変わった。国会での証人喚問(3月23日)の前後から安倍晋三首相や昭恵夫人に批判的な言動が目立つようになると籠池氏に疑問を持つ人が増え、「純粋な気持ちを踏みにじられた」(兵庫県の女性)「寄付が無駄になった。籠池氏の人間性を疑う」(滋賀県の男性)などと憤りの声も上がった。

 埼玉県の男性は「27年4月に安倍晋三記念小学校の名が記載された振込用紙で寄付した」と証言した。

 籠池氏は証人喚問で、首相の名を使った寄付募集について「首相就任前の24年のほんの一瞬しか行っていない」と証言したが、実際にはその後も首相の名を使って寄付を募集していた疑いがますます強まった。


 学園側は小学校の設置認可を取り下げ、寄付金は無駄になる公算が大きい。寄付者の多くは「面倒なのでもう関わりたくない」「あきらめた」と語ったが、今後寄付金返還を求めて訴訟などの動きが出る可能性もある。





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    3.11東日本大震災 福島第一原発爆発 楢葉町 367   
by nsmrsts024 | 2017-04-03 06:53 | 朝日新聞・綜合、政治

千年に一度の巨大津波と原発事故による核災害


by nsmrsts024