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3月26日(土)・・・「気仙沼水産業の担い手」外国人研修生、津波で離散

大津波は水産業の現場を支えてきた外国からの研修生や実習生の人生も、一変させた。津波に漁船や工場がのみ込まれ、働く場をなくした人たちは涙ながらに帰国した。漁船で沖に出たまま、行方が分からない人たちもいる。

 「元気でね。泣かないの」。宮城県気仙沼市の水産加工会社大島水産で働く伊藤あつ子さん(60)は、握った手を離そうとしない中国人研修生、李怡(リー・イー)さん(26)を抱きしめた。震災後、不安げな姿を見て、伊藤さんは避難所の同じ教室で寝泊まりしてきた。「ずっと一緒にいてくれた。お母さんみたいな人。離れたくない」。李さんは泣いた。

 帰国のため、中国大使館が用意したバスに乗り込む李さんら約30人の研修生を、伊藤さんは無理に笑顔を作って見送った。

 会社の大島忠俊社長は、避難所を回り研修生を捜した。現金の手持ちがなく、働いてきた分の給料の支払いを約束した「保証書」を持たせて研修生を送り出した。「3K(危険、きつい、汚い)で、働き手の少ない職場を支えてくれる貴重な子たちだった。無事に送り返せてよかった」

 気仙沼市は20年ほど前から水産加工場などで外国人研修生を受け入れてきた。被災当時、中国人約300人をはじめ、フィリピン人やインドネシア人ら計約460人がいた。多くが研修生だった。

 漁船員として働いてきたインドネシア人たちの元にも大使館から迎えが来た。気仙沼漁協所属の近海マグロ漁船、第71大喜丸(前田晃寿船長)のインドネシア人船員8人は、避難場所から、津波に流される愛船を見た。水が引くと船は大破して川のほとりに乗り上げていた。エル・リフィンさん(28)は「いったんインドネシアに帰りたい。少しずつ忘れないとつらい」。
大使館の車に乗り込む前、ムギ・ヤントさん(28)は前田さんに「がんばって。また仕事を始めたら、どんなことでも手伝うから」。前田さんは「よし、なんか考えとくから待ってろ」と威勢良く答えてにじんだ涙をごまかした。市内のインドネシア人船員55人が気仙沼を離れ、東京に向かった。

 同県塩釜市の沖では、大分県漁協保戸島支店所属のマグロはえ縄漁船第3くに丸(小山国友船長)のインドネシア人船員4人の行方が分からないままだ。震災の日、次の漁に備えて拠点の塩釜港に停泊していた。だが、大津波の被害を避けようと、沖に出たところで波をかぶった。第1波で計器類が壊れ、窓ガラスが破損。4人は船員室から外に出たところで、第2波にさらわれたという。

 僚船の船主は「インドネシア人の船員がいないと漁は成り立たないのが現状」と言う。僚船に乗っていたインドネシア人船員(30)は4人について「寂しい。みんな泣いた。元気で見つかってほしい」と語った。(岩田誠司、奥正光)
by nsmrsts024 | 2011-03-26 19:20 | 朝日新聞・綜合、政治

千年に一度の巨大津波と原発事故による核災害


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