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3月20日(水)・・・

(いま伝えたい)のみ込んだ「お変わりないですね」
■「千人の声」その後 取材後記:18

 【後藤遼太】1年ぶりに仮設住宅を訪れた記者を、1年前と同じ笑顔で迎えてくれた人たち。「お変わりないですね」。つい口をついて出そうになる何げないあいさつの言葉を、何度も慌ててのみ込んだ。原発事故で故郷を追われ、2年前と変わらない仮設暮らしを余儀なくされている人たちが、まだ大勢いた。

 雪深い三春町の狭い仮設住宅で再会した松本政喜さん(65)。故郷の富岡町がある温暖な浜通り地方に思いをはせていた。

 「原発事故から逃れるため家を出た2011年3月12日の午前5時。ここで、富岡の時間は止まっているんです。むしろ、悪くなっている」

 一時帰宅で訪れるたびにどんどん荒れ果てていく我が家を見る胸中は、いかばかりだろうか。1年前の取材では、「いずれは、富岡に帰ります」と力強い口調で答えていた。今回の訪問では「帰れるのだろうか。疑問の気持ちが大きくなっている」と話すようになっていた。

     ◇

 仮設で暮らす人たちはみな、原発事故の被害者だ。それでも、多くの人が「後ろめたさ」を抱えて日々を過ごしていることが印象的だった。

 川内村から妻と子ども2人と郡山市に逃れてきた遠藤友樹さん(27)。勤めていた大熊町の工場が閉鎖され、今は派遣社員として働いているが、収入は3分の1になった。東電からは、精神的苦痛に対する損害賠償や仕事を失ったことに対する補償を多額の現金として受け取った。仮設で暮らす人々は、多かれ少なかれ似たような状況だ。

 「避難者は東電から賠償金をたっぷりもらっている」

 そんな声が、いやが応でも遠藤さんの耳に入るという。ネットで「避難民は働かずに賠償金でパチンコ三昧(ざんまい)」と書かれているのを見たこともある。「確かに、現金が手元にあると使っちゃうんです。実際、パチンコに行く回数も増えた」。我が身を振り返ることも、確かにある。数百万円単位の現金を一度に手にすることなど、原発事故以前にはなかったことだ。

 それでも、遠藤さんは打ち明ける。「慣れ親しんだ川内で、安定した仕事をしながら生活する。子どもたちを、仲のいい友達の中で育てる。どんな大金をもらっても、やっぱりそんな暮らしがいいっすよ」

     ◇

 震災から2年たって、被災者同士の間に吹く微妙な隙間風のようなものを感じることが、何度かあった。

 楢葉町からいわき市に避難している男性(28)は「最近、避難者といわき市民がギクシャクしていると感じます」と話した。原発周辺地域から避難者が同市に流入し、病院が混んだり渋滞が発生したりしている。「受け入れてもらったいわき市の人たちに、負担をかけてしまっている面は否めないと思います」という。

 「川内村の人はもう帰村できるのに、なんでまだ仮設にいるんだ」。郡山市の仮設住宅で暮らす川内村出身の男性は、こんな言葉を同じ避難者から投げかけられたことがあると教えてくれた。この仮設住宅は入居希望者が多く、たとえ空室ができても県外からの帰還者ですぐ埋まってしまうという。故郷に帰るメドがまったく立たない人たちもいれば、帰還が始まっている自治体もある。被災者の間の「分断」を垣間見た気がした。1年前にはなかったことだ。

     ◇

 持病を抱えながらも、病院のない故郷の村に1人で戻った若松克夫さん(85)に会いに行った。

 若松さんが仮設で暮らしていた郡山市から車を2時間近く東へ走らせる。田村市の都路地区を通ると、そこかしこで除染作業が行われていた。住民の立ち入りが日中しか許されていない地区だ。土砂を詰めた黒い大きなポリ袋が路面の両側に並んでいた。さらに進むと、凍結した路面で警視庁の車両が立ち往生していた。曲がりくねった山道の奥に、ようやく川内村があった。















3.11東日本大震災と福島第一原発爆発事故から2年
千年に一度の巨大津波と66年後にまた起きた人間が発する核災害の記録
(東日本大震災と放射能人災からの直後の1年間を顧みる)


[2011年4月5日]・・・姿見えぬ原子力安全委 事故時の助言役、果たせず
原子力の安全確保の基本方針を決める原子力安全委員会の存在が、揺らいでいる。事故時には専門家の立場から政府や事業者に助言をする役割も担うことになっているが、福島第一原発の対応では本来の使命を十分に果たせていない。未曽有の大事故に、能力の限界を指摘する声も内部から上がっている。

 安全委は内閣府に置かれた、省庁から独立した機関。作業員2人が死亡、住民ら約660人が被曝(ひばく)した核燃料施設JCOの臨界事故(1999年)の反省から、直接事業者を規制する原子力安全・保安院が経済産業省の中に設けられ、その保安院の安全規制を監視するお目付け役として、独立色を強めたはずだった。

 安全委の委員は、原子力や放射線などの専門家5人。約100人の職員が事務局として支える。ふだんは安全審査や原子力防災の指針を定めるなどの仕事をしているが、今回のような事故時には、緊急に専門家集団を設けて首相に技術的助言をすることが原子力災害対策特別措置法で決まっている。

 だが、安全委は当初沈黙を続けた。住民の被曝や汚染の広がりの予測に役立つ放射能拡散の試算もなかなか公表しなかった。

 班目(まだらめ)春樹委員長が初めて会見したのは、地震発生から12日後の3月23日。「助言機関として黒衣に徹してきた」と釈明した。2号機の建屋外で高濃度の放射能汚染水が見つかった28日の会見では、「どんな形で処理できるか知識を持ち合わせていない。保安院で指導してほしい」と自らの役割を否定するような発言も飛び出した。

 安全委は事故発生当日、専門家集団を招集するとともに、現地へ職員を派遣した。官邸や保安院、東電にも連絡係を置いて情報を集めてきた。だが、委員の一人は「今の安全委では人手が足りない」と漏らす。
代谷(しろや)誠治委員は「原子炉の圧力などの重要なデータが時々刻々で入ってこない」と打ち明ける。4月1日に始まった原発敷地内での飛散防止剤散布も「漏れ伝わってきた程度」といらだちを隠さない。

 JCO事故の際に陣頭指揮を執った安全委員経験者らからは「今回は安全委の顔がみえない」「技術的側面の支援をしていない」との批判まで出ている。

 政府内でも存在感は薄れていくばかり。菅直人首相は3月16日から29日にかけて原子力などの専門家6人を内閣官房参与に次々と起用。4月1日には放射線医学の専門家を首相官邸に招いて意見交換した。その一方で、政府は保安院の院長や審議官の経験者を安全委事務局に送り込み、てこ入れを図り始めた。

 安全委は4日に開いた定例会で、地震後初めて保安院から事故の正式な報告を受けた。報告内容はすでに入手済みの情報ばかり。班目委員長は「保安院とのコミュニケーションが足りないと思っていた。今回の報告が改善の一歩になれば、というのが本音だ」と話した。
by nsmrsts024 | 2013-03-20 05:58 | 朝日新聞・綜合、政治

千年に一度の巨大津波と原発事故による核災害


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