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6月1日(日 )・・・東日本大震災から3年2ヶ月と21日

3.11東日本大震災と福島第一原発爆発事故から3年と1ヶ月
1000年に一度の巨大津波と66年後にまた人間が起こした核災害の記録
(東日本大震災と放射能人災から直後の1年間を顧みる)


2011年3月21日(月)・・・避難者、16都県で31万9101人〈21日午後9時〉
警察庁のまとめでは、21日午後9時現在の避難者数は、16都県で計31万9101人だった。

 確認されている避難者数は宮城11万3223人、福島13万1665人、岩手4万5687人、新潟7849人、山形3858人、埼玉3688人、茨城3582人、栃木3201人、群馬2983人、千葉1220人、東京733人、山梨457人、青森367人、神奈川252人、長野県193人、静岡163人。

 このうち宮城、新潟、長野、栃木、千葉、茨城、神奈川、静岡の8県には福島県から避難した人が山形、群馬、東京、山梨の4都県には宮城、福島の両県から避難した人が含まれている。



2011年3月21日(月)・・・ひょうたん島の灯台、津波で崩落 吉里吉里人は復興着
岩手県大槌町は、作家の故・井上ひさしさんの代表作「ひょっこりひょうたん島」や「吉里吉里人」のモデルとされる。地震と大津波は町を無残な姿に変えた。だが、生き残った町民は吉里吉里の精神で結束し、復興に向けてどこまでも前向きだった。

 大槌湾沖の小さな島、蓬莱(ほうらい)島には、大小二つの丘があり、島影はひょうたんの形をしていた。小さい方の丘に灯台があった。NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルの一つとされ、町の自慢だった。震災前は毎日正午に防災無線を通じて、町内全域にテーマソングも流れた。

 だが、島は津波にのまれ、灯台も流された。ひょうたん形の丘も一部が崩れ落ちた。

 町職員の佐々木健さん(54)は「灯台が壊れたのは残念。でも『泣くのはいやだ、笑っちゃおう』という希望をもたらしてくれるのがひょうたん島。これから復興の旗頭になったらいい」と話した。

 町中心部から北東に約4キロ。海岸沿いに広がる吉里吉里地区は、小説「吉里吉里人」(1981年)のモデルとなった。東北の寒村が日本から独立をめざすという物語。ベストセラーとなり、同地区は「吉里吉里国」として井上作品のファンたちに親しまれてきた。高台のJR山田線吉里吉里駅には、多くのファンが足を運び、切符や入場券を買い求めた。

 地震と大津波で「吉里吉里国」も一面がれきの山と化した。約300世帯2500人が暮らすが、震災でこれまでに約30人が亡くなり、約45人が行方不明になっている。

 だが、震災当日に住民自ら対策本部を発足させ、翌日から、経営者の許可を得て、ガソリンスタンド地下のタンクに残された灯油や軽油の確保に乗り出した。地元の水道事業者らが、がれきの山からかき集めた配管といった資材を使って手動ポンプをつくり、13日までに設営。14日から油をくみ上げた。

 灯油は避難所を暖める暖房機器に、軽油は、地元の建設会社や造園会社から提供を受けた重機に供給された。住民100人以上が重機と共にがれきの撤去に乗り出し、生活道路の確保を目指した。

 避難所で被災者の相談や要望を受け付ける芳賀広喜さん(63)は胸を張った。「吉里吉里国は大変なことになったけど、人々の結束はより強くなった。吉里吉里の人間であることを誇りに思う」(森本未紀、河村能宏)












[世界と日本・今日この頃]

「頑張れる」吉田氏の判断尊重 事故対応、細野氏が証言

東京電力福島第一原発の事故に首相補佐官として対処し、吉田昌郎(まさお)所長(故人)との連絡役を務めた細野豪志氏が3時間近くにわたって朝日新聞のインタビューに応じた。原子炉が暴走する中で第一原発からの撤退に傾く東電本店と、現場に踏みとどまり食い止めようとする現場責任者の吉田氏の間に温度差を感じ、吉田氏の判断を尊重するべきだと菅直人首相に進言した経緯を詳細に語った。


 朝日新聞は、吉田氏が政府事故調査・検証委員会に答えた「吉田調書」の中で細野氏に言及した部分を提示し、インタビューした。細野氏は事故対応の取材にほとんど応じてこなかったが、事故から3年以上が過ぎ、「記憶の限界に来ている。そろそろ話さなければいけない」と考えていた矢先に吉田調書報道を見て、証言を決心したという。

 細野氏が吉田氏と本店の間に最も温度差を感じたのは事故発生3日後の2011年3月14日夜、2号機原子炉に冷却用の水を入れられなくなった後だ。この時、細野氏は吉田氏から電話が2回あったと証言した。

 最初の電話は水が入らないことを伝えるもので、細野氏は「(吉田氏は)福島第一で作業できない状況になる可能性を示唆したと私は受け取った。完全に現場から撤退しなくてはならないと」と振り返った。

 2回目の電話は水が入り始めたという連絡だった。細野氏が「頑張ってやっていただけますよね」と言うと、吉田氏は「大丈夫です。まだ頑張れる。現場の士気は衰えていない」と応じた。細野氏は「元の吉田さんに戻った」と思い、弱気になった1回目の電話の時と異なり収束作業をあきらめない強い意思を感じたという。

 同じ時間帯、東電の清水正孝社長は海江田万里経済産業相に何度も連絡を取ろうとしていた。細野氏は海江田氏や枝野幸男官房長官から「東電は撤退したがっている」と聞いていた。

 細野氏は「清水社長はじめ会社の方から撤退論が出た。吉田氏とニュアンスの違いがあると感じた」「吉田氏には、ここは踏ん張るしかないという腹の決め方があった。官邸も全面的に支援をすると決めた。問題は東電が現場をバックアップする腹があったかどうかだ」と証言。「東電社員で官邸にいた人はもはや打つ手がないという雰囲気だった」とも語り、現場の吉田氏と東電本店の間で撤退を巡る認識に大きな違いがあったことを明らかにした。

 細野氏は吉田氏との電話を踏まえ、菅首相に「現場は踏ん張れる状況です。吉田氏の判断を尊重すべきです」と進言。菅首相は15日未明、清水社長を官邸に呼んで「撤退はあり得ない」と告げた。

 その後、15日午前6時すぎに2号機の異変を伝える情報が入ったが、放射線量は上昇しておらず、吉田氏は午前6時42分、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機を命令。しかし所員の9割が命令に違反して10キロ離れた第二原発へ撤退したことが「吉田調書」で判明している。=肩書は当時(木村英昭、堀内京子)

■「公開していい」

 細野氏は自らも政府事故調の聴取に応じたことを認めた上、その内容を記録した調書を公開していいとの考えを示した。「政治家は歴史に対する責任がより重い」と語った。
by nsmrsts024 | 2014-06-01 07:42 | 朝日新聞・綜合、政治

千年に一度の巨大津波と原発事故による核災害


by nsmrsts024