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1月9日(金 )・・・東日本大震災から3年9ヶ月と28日

3.11 東日本大震災と福島第一原発爆発事故から3年と9ヶ月
1000年に一度の巨大津波と66年後にまた人が起こした核災害の記録
(東日本大震災と放射能災難から直後の1年間を顧みる)



2011年3月28日(月)・・・伝統芸能や信仰、被災地支える 「絆を確かめたい」
東北地方の伝統や信仰が被災者たちの心の支えになっている。

 「ジョイワナ、ジョイワナ」。黒光りする虎の面が激しく舞い、黄色と黒のしま模様の布が左右にはためく。

 岩手県陸前高田市の大石地区。周囲に倒壊した家屋や逆さになった消防車が無造作に散らばる公民館の前で23日、伝統行事「虎舞(とらま)い」が披露された。本来は、家々を訪ね、暴れ回って邪気を払う小正月の風習だ。虎を操った左官業の斉藤実さん(61)は言う。

 「避難所にいても気分が落ち込むだけだもの。おらほの守り神をがれきの下で眠らせるわけにはいかないっぺよ」

 160戸あった大石地区は震災で40戸ほどに減り、住民350人のうち80人が行方不明になった。虎舞い用の面や衣装が保管されていた公民館も水没した。七夕祭りで使う高さ8メートルの山車も骨組みが傾き、竹飾りがひしゃげた。

 震災から3日後、大工の金野光晃さん(66)は公民館や山車の修繕に取りかかった。

 「ここ10年で祭りがまたやれるとは思ってねえ。でも、ちょっこりちょっこりやってれば、孫やひ孫の代では復活するべ。そのときのために残しておくっぺよ」

 今では10~70代までの男女10人ほどが手伝い、金づちやノコギリの音を響かせている。多くは家族を失い、家を流され、避難所で暮らしている人たちだ。家族4人を失った星野功子さん(75)は「いろんなものが流されたけど、地域の絆は残っていることを確かめたいのよ」。

    ◇

 岩手県大船渡市三陸町の杉下地区には、守り神がある。

 高台の八幡神社境内にそびえ立つ「三陸大王杉」だ。高さ25メートル、幹の周囲11.6メートルの巨木は、樹齢1500~7千年と言われる、市の天然記念物になっている。
地震のあった翌朝、津波で実家を失った佐藤クニ子さん(70)は不思議な光景を見た。神社に向かう道はがれきがふさぎ、階段は崩れ、近くの杉は根元から折れている。それでも、大王杉はどっしりと立っていた。「杉から線を引いたように後ろには津波の被害がねかった。まるで町を守っているみたいだべ」

 時折、この杉を見上げ、元気をもらう被災者は少なくない。全壊したガソリンスタンドのがれきを片づけていた経営者の佐藤道夫さん(66)は作業の合間、大王杉を訪ねる。「震災があっても、この杉の葉はみずみずしい。おれらも何度でも立ち上がるしかねえべ」

 大王杉が森のように集落を覆う姿から「杉下」という地名が生まれ、漁師は灯台代わりにし、海上安全を願った。腐食が進んだ1990年代には住民の寄付や旧三陸町などが2千万円近くを出資し、蘇生させた。「大王杉を守る会」の山田林さん(73)は「あの杉はこんな津波を何回耐えてきたもんだかね。変わり果てた町を、ずっと変わらぬ存在が見守ってくれる。それが住民の心の支えになる」と話す。

    ◇

 大船渡市三陸町の吉浜地区は、約1400人の住民のうち行方不明者は1人、倒壊も4棟にとどまった。多くの家は湾を望める高台に建てられ、住民は素早く避難した。

 「先祖が100年後の子孫を救ってくれた」。農業柏崎久喜さん(61)は話す。

 柏崎さんの自宅にある古びた掛け軸の脇には115年前に地区の約2割の命を奪った1896(明治29)年の「明治三陸津波」の日付が記されている。そのとき亡くなった柏崎家の先祖4人の名前と絵もある。被災の記憶を風化させないようにと描かれたという。

 1933(昭和8)年の「昭和三陸津波」の後には「家は今より高台に建てろ」といった教訓が記された和紙が作られた。




2011年3月28日(月)・・・県外ボランティアほしいのに 燃料・食料なく持参者限定
東日本大震災の被災地で、被害を受けた家の片付けを始める人が増え、ボランティアへのニーズが高まっている。被災地の外から「支援したい」という希望者も多いが、被害の大きかった地域ではガソリンや食料などが不足し、県外からは受け付けていないところがほとんど。人手はほしいのに受け入れられないジレンマの中、地元のボランティアには疲れもにじむ。

 津波で川から泥があふれ出した宮城県東松島市の赤井地区。26日午後、ひとり暮らしの女性(52)の家に、5人のボランティアが訪れた。4人は地元の若者たちだ。

 10センチほど積もった泥が家の周囲を覆い、家の中で倒れた家具は泥まみれ。泥をよけて通路を作り、水を吸った畳や家具を運び出す。2時間ほどでようやく1階の床が見える程度になった。「1人では無理。なんと感謝していいか」。女性は涙を浮かべ、頭を深々と下げた。

 同市の災害ボランティアセンターには、家の片付けを手伝ってほしいといった要望が相次ぎ、順番待ちの状態だ。それでも、ホームページには「現在は市内のボランティアで対応しています」の文字。ガソリンや食料を持参した人だけ、受け入れているという。「人手はほしいけど、地元の生活を圧迫しては意味がない」と、スタッフの一人は話す。

 宮城県災害ボランティアセンターによると、27日現在、14市町で災害ボランティアセンターができたが、県外から受け入れているところは少ない。首都圏などからの問い合わせは多いが、「ガソリンや食料を自分で調達して」と強調している。

 受け入れ側の調整力にも限界がある。

 当初、県外からも受け付けていた名取市では、ボランティア希望者が増えたため、25日から県内限定に切り替えた。希望者が多すぎると、調整ができなくなってしまうためだ。「今はバランスが取れている」と我妻諭・災害ボランティアセンター長は言う。
ただ、活動を始めて9日目になるという仙台市の大学生(21)は「現場は人が足りない。疲れも出てきた。これからはもっと県外からの助けがいると思う」と漏らす。

 被害が大きく、助けを必要としている地域ほど、受け入れも遅れている。

 気仙沼市では、ボランティア受け入れを担う市社会福祉協議会の建物が津波にのみこまれ、資料も水没した。公共施設のほとんどが避難所になり、最近ようやく市の健康管理センターの一室に事務所を設置。28日にも受け入れを始められるよう準備しているが、パソコンやファクスも、作業に必要な長靴やスコップもない。当面は道具を持参できる市内在住者に限り、避難所での要望の聞き取りや、支援物資の仕分けなどを手伝ってもらう予定だという。

 同協議会の菊田迅人事務局長(50)は「支援したい人も、支援を必要としている人も、大勢いるのはわかっている。でも半壊状態の建物は倒壊の危険性もあり、ボランティアが入れる状況ではない」と苦しい胸の内を明かす。

 宮城県に常駐する内閣府の阿久津幸彦政務官は「阪神大震災の時などと比べ、ボランティア対策は遅れている」と認める。「規模が大きすぎることや、ガソリンなどが足りないことが原因。ただ、自衛隊の活動が一段落した後、必ず力が必要になる」(仲村和代、三浦英之、杉浦幹治)





[世界と日本・今日この頃]

死者1万5889人、不明者2594人に 東日本大震災
警察庁がまとめた東日本大震災(余震を含む)の死者は、9日現在で1万5889人となった。警察に届け出があった行方不明者は2594人。
by nsmrsts024 | 2015-01-09 08:30 | 朝日新聞・綜合、政治

千年に一度の巨大津波と原発事故による核災害


by nsmrsts024