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2015年3月11日(水)・・・東日本大震災から4年

3.11 東日本大震災と福島第一原発爆発事故から4年
1000年に一度の巨大津波と66年後にまた人が起こした核災害の記録
(東日本大震災と放射能災難から直後の1年間を顧みる)



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     3.11 東日本大震災 津波・1     岩手県宮古市・堤防を乗り越える大津波


2011年3月30日(水)・・・福島第二原発1号機から煙 タービン建屋の分電盤付近
東京電力福島事務所によると、30日午後5時56分ごろ、福島第二原子力発電所(福島県楢葉町、富岡町)の1号機のタービン建屋1階の分電盤付近で煙が出ているのを発見、同57分に消防に通報した。その後確認したところ、午後6時18分現在、煙は確認されていないという。



2011年3月30日(水)・・・第一原発南側の海水、放射性ヨウ素基準の3355倍
東京電力は30日、福島第一原子力発電所(福島県大熊町、双葉町)1~4号機の放水口から南に約330メートルの海岸沿いで、29日午後に採取した海水から、原子炉等規制法が定める基準の3355倍にあたる濃度の放射性ヨウ素131を検出した、と発表した。また、30日午後5時56分ごろ、福島第二原発(同県楢葉町、富岡町)1号機のタービン建屋で煙が出ているのが見つかった。その約17分後に煙が消えたことが確認された。

 福島第一原発では、5、6号機の放水口から約30メートル北の地点でも、同日午後の海水から1263倍のヨウ素131を検出した。

 海水中のヨウ素131の濃度については、南側で25日に基準の1251倍を検出。26日には1851倍に上昇していたが、28日には28倍にまで低下していた。北側では27日に1150倍を検出したが、28日には666倍にまで下がっていた。29日に入って南北いずれでも濃度が急上昇した。ヨウ素131の放射能が半分になる半減期は、8日と短い。

 半減期が長いセシウムも高濃度で見つかった。東電によると、29日午後に採取した海水から、南側ではセシウム134も基準の520倍、セシウム137は352倍検出された。北側でもセシウム134は202倍、セシウム137が137倍の濃度だった。

 経済産業省原子力安全・保安院は、放射性物質を含むちりが海に流れたり、周辺に飛び散ったりするのを防ぐため、のり面工事などに使う粉じん防止剤の溶液を散水車でまき、固める実験を1~4号機の付近で31日から始める予定と発表した。

 原子力安全・保安院の西山英彦審議官は会見で「汚染水の海への流れ込みを避けなければならないが、潮流で拡散され、周辺住民にただちに影響はないと考えられる。早く原因を突き止め、食い止めることが重要だ」と述べた。




[世界と日本・今日この頃]

震災4年、変わりゆく祈りの場 かさ上げで撤去や移転
 1万5891人が亡くなり、2584人の行方が今もわかっていない東日本大震災の発生から11日、4年を迎えた。津波被災地では、土地のかさ上げ工事で大切な人をしのぶ場がなくなろうとしている。追悼の朝。遺族や被災者たちは、失った人への変わらぬ思いを胸に刻み、静かに手を合わせた。

特集:3.11 震災・復興

 東京都練馬区の瀬尾真治さん(60)と妻裕美さん(56)はこの日も、長男の亮介さん(27)と岩手県大船渡市の越喜来(おきらい)地区を訪れた。娘が好きだった三陸に通った4年間。娘を奪った海を望む丘が家族にとって大切な場所になった。

 海と海の生き物が大好きだった長女、佳苗さん(当時20)は東京の高校を卒業後、大船渡市にある北里大海洋生命科学部に進んだ。だが、あの日、津波から逃れる車いすの高齢女性を助けて、自らは流された。

 真治さん夫妻は毎月のように現地を訪れ、佳苗さんを捜し歩いたが見つからなかった。「佳苗に会える場所がほしい」。手を差しのべてくれたのは、地元の人たちだった。

 佳苗さんが暮らしたアパート跡から200メートルほど離れた場所を親しくなった人が提供してくれ、昨年3月、石碑を設けた。娘さんは私たちが預かっていますから――。そう言ってくれる女性もいた。

 越喜来の人たちとの出会いに感謝したい。友人に囲まれていた娘への思いも込めたい。幅約1・5メートル、高さ約60センチのごつごつした石碑には「友心」と刻んだ。

 ただ、ここで娘に会えるのも今月いっぱいだ。県道のかさ上げで立ち退かなければならない。

 真治さんたちは別の場所に石碑を移そうと考えている。「海を見おろせる静かな場所がいい。娘や自分たちを支えてくれた友がいる、この越喜来なら、佳苗も納得してくれるはず」(阿部浩明)

■母校の解体「夢が消えちゃった」

 津波が来てるから、戻ってきちゃだめだよ。瑠衣ちゃんに、そう伝えてあげればよかった――。県立仙台三桜高校2年の伊藤碧惟(あおい)さん(17)は今も、悔いている。

 750人以上が津波で亡くなった宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区。生徒14人が犠牲になった閖上中学校の1年生だった。同級生で、ソフトテニス部でも一緒だった浜田瑠衣さん(当時13)を失った。

 あの日も、メールでたわいのないやりとりをしていた。《体調、大丈夫?》《大丈夫だよ》。大きな揺れに襲われたのは、そのすぐ後だった。

 家族と一緒に、海と反対のほうへ車で逃げた。渋滞で止まると、外に出て走った。高台にたどり着き、振り返った。波は目前に迫り、自分の家はもう見えなくなっていた。

 「瑠衣ちゃんは……」。家族と買い物に出かけ、津波にのまれた。人づてにそう聞いた。

 1年後、中学校の旧校舎前に慰霊碑ができた。高さ約1メートルの黒御影石。浜田さんの名前も刻まれた。

 中学校は内陸に7キロ先のプレハブ校舎へ。でも、ふらりと出かけるのは、いつも海に近い旧校舎。友だちとけんかした時。悩みがある時。何だか、うまくいかない時。自宅から10分ほど自転車をこぎ、碑に手を合わせた。

 旧校舎は解体が決まった。慰霊碑は地区内の別の所へ移されると聞いた。

 「大人になったら母校に帰るのが夢だった。夢が消えちゃった」。11日午前9時すぎ、伊藤さんは慰霊碑の前に立ち、浜田さんの名前を手でそっとなでた。(堀江麻友)

■《がんばろう!》看板、最後の追悼か

 津波で壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市門脇地区。枯れ草が茂る広い更地の一角に、縦2メートル、横11メートルの看板が掲げられている。

 《がんばろう!石巻》

 自分だけでなく、周りの人たちを奮い立たせられたら、と考えた水道配管工事店を営む黒沢健一さん(44)が津波で流された自宅兼店舗の跡地に震災の翌月、設けた。

 がれきに覆われたまちでは、行方が分からない家族を捜し歩く人たちが大勢いた。仲間たちと廃材をかき集めた。

 いつからだろう。看板の前に立ち、涙を流して手を合わせる人の姿を見るようになった。一人、また一人。花を供えに来る遺族もいた。その年の夏、小さな献花台を設けた。「励まそうと思って立てた看板に、人々が自然と集まり、追悼の場になった」

 震災1年後の3月11日、地震発生時刻の午後2時46分にあわせて看板前で開いた追悼イベントには、県内外から約350人が集まった。昨年は約600人に。

 ただ、イベントは今年が最後になるかもしれない。

 土地区画整理事業が昨年8月から始まった。看板の目の前の県道を標高3・5メートルにかさ上げする工事がまもなく本格化する。看板が立つ場所は2020年度を目標に整備される「復興祈念公園」の予定地だ。いずれ土地の売却を求められ、看板は撤去を迫られる。

 この日。朝から花束や線香を持った遺族らが次々と手を合わせに来た。

 「まちが大きく姿を変えることに一喜一憂せず、できることを粛々とやっていく。被災者一人ひとりが心の平穏を取り戻し、生活を立て直すこと」。黒沢さんはそれが本当の復興だと信じ、震災4年のイベントの準備をした。(茂木克信)
by nsmrsts024 | 2015-03-11 07:42 | 朝日新聞・綜合、政治

千年に一度の巨大津波と原発事故による核災害


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