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2016年3月11日(金)・東日本大震災から5年

3.11 東日本大震災と福島第一原発爆発事故から5年
1000年に一度の巨大津波と66年後にまた人が起こした核災害の記録
(東日本大震災と放射能災難から直後の1年間を顧みる)
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3.11 東日本大震災      福島第一原発爆発 飯館村 212



2011年3月7日(木)・情報混乱で転戦・待機…救急活動わずか90分 兵庫県隊
東日本大震災の直後、第一陣としては全国最大規模の緊急消防援助隊を出動させた兵庫県隊が、生き埋めになった人の生存の目安とされる「72時間」のうち90分間しか活動できていなかったことが明らかになった。情報が混乱するなか、総務省消防庁から転戦指示と待機が繰り返されたためだ。隊員たちは今も無念さにさいなまれている。

■隊長「もっと何かできたのでは」

 神戸市消防局によると、兵庫県の第1次派遣隊は、地震発生から約9時間後の3月11日午後11時30分に出発した。総務省消防庁が12日未明までに出動指示した24都道府県の中で、最大規模の252人が64台の車両で東京方面に向かった。

 長野県付近を走行中の12日午前3時59分、同県栄村で震度6強の地震が発生。消防庁の転戦指示を受け、栄村に近い飯山市で待機した。すると「地元で対応可能。福島へ行け」と再び転戦指示が出た。

 西宮市消防局の藤岡拓郎さん(28)は焦っていた。発生から72時間を過ぎると、生存率が急激に下がるといわれる。「はやる気持ちを必死で抑えた」。集合場所の福島県郡山市に着いた時には地震から約34時間がたっていた。

 13日朝、今度は宮城県山元町への転戦指示が出た。午後に山元町に着いたが、日没後の活動は危険と判断。14日午前7時、町の沿岸部でようやく捜索を始め、隊員らはスコップで必死に泥を掘った。

 その1時間半後。桂敏美・兵庫県隊長(51)は宮城県災害対策本部からの衛星電話に耳を疑った。「南三陸町に行ってほしい」

 「なぜですか! すでに活動を始めている。他の県隊を回せませんか」

 「南三陸のほうが被害が大きい。大規模部隊の兵庫にお願いしたい」

 桂隊長は感情を抑えて無線のマイクを握った。「活動停止。転戦する」
隊員は静かに従った。だが、地元の消防団員や消防署員からは「もう帰るんですか」「行かないでくれ」と言われた。「すれ違う町民と目を合わせられなかった」と西宮市消防局の藤岡さんは言う。

 「72時間」は南三陸町への移動中に過ぎた。15日午前7時に捜索を始めたが、1人も救出できないまま、午後1時、第2次派遣隊と交代して帰途に就いた。

 救助部隊長を務めた西宮市消防局の田中正和さん(44)は、1995年の阪神大震災で行方不明者の救出に奔走した。当時、妻と2人の幼い息子が待つ団地には、全国から消防の給水車が来てくれた。今回、「16年前の恩返しができる」と意気込んだ。「もっと何かできたのではないか」。兵庫に戻ったいま、空しさが募る。

■想定外続き、被害状況把握できず 総務省消防庁

 総務省消防庁によると、東日本大震災では、岩手、宮城、福島の3県を除く44都道府県の緊急消防援助隊が出動し、6日までに延べ約2万5千人が活動に携わった。

 だが津波で役所自体が被災するなど想定外のことが次々と起き、被害状況の把握に手間取った。消防庁は発生直後に岩手、宮城、福島、茨城の4県の県庁に職員を派遣したが、電話や消防防災無線が寸断され、被害の大きい市町村と県庁との間で連絡が取れない状態が2、3日続いたという。

 兵庫県隊の場合、消防庁は長野県から福島県へ転戦させたが、到着した後になって福島県内に緊急援助隊が集中しすぎていることが判明。逆に宮城県の被害の大きさが徐々に明らかになり、転戦指示を出さざるを得なかったという。

 消防庁災害対策本部広域応援班の担当者は「予想を超える被害で情報収集が困難だった。指示に最善は尽くしたが、兵庫県隊は転戦が重なり、時間を費やしたのは事実。通信手段の確保などを含め、今後の検討課題にしたい」と説明した。(小野大輔、太田成美)

 
[2015年、世界と日本・今日この頃]

津波で亡くなった母、伏せた父 思い受け止めた17歳は


 母はかすみ草が好きだった。どうしてだろう。

 「花言葉か何かかな」。今月6日の食卓。戸羽太河(たいが)さん(17)が口にすると、父の太(ふとし)さん(51)は「ちっちゃい花の雰囲気じゃないかな」とほおを緩めた。

 震災からしばらくは、母・久美さん(当時38)のことを家族で話すこともできなかった。

     ◇

 津波に襲われた岩手県陸前高田市の街中に、自宅はあった。家は流され、小学6年生だった太河さんは、2歳下の弟と親戚の家で避難暮らしを始めた。

 市長である父は、指揮をとる災害対策本部に泊まり込み、帰ってこない。母の安否はわからないまま。弟はずっと泣いていた。

 自分は2階の部屋で、昼寝ばかりしていた。「大丈夫。お母さん見つかるから」。周りの人から声をかけられると、また苦しくなり、布団にもぐって泣いた。

 10日ほどして、親戚が父のところへ連れて行ってくれた。久しぶりの父は無精ひげで作業服姿。胸に飛び込み、抱きしめられると、涙が止まらなくなった。

 父も泣いていた。そして笑顔で言った。「泣いたってどうにもならないことがあるんだよ。お兄ちゃんなんだから、頼む」

 小さい頃から、いつも父や母にくっつき、甘えるのが大好きだった。

 でも、泣いても母が帰ってくるわけじゃない。

 いま父は一番大変な場所にいる。弟はつらそうだ。せめて自分はしっかりしよう。そう決めた。

 4月。母が遺体で見つかり、父が対面したことを新聞の記事で知った。

     ◇

 中学に進学しても親戚宅に身を寄せた。父は多忙ながらも帰ってくるようになった。けれど、母のことはだれも口にしない。たまに家族で出かけると、車の助手席やレストランの座席が空いていた。

 5月の連休明けから学校を休みがちになった。「頭が痛い」。うそをついた。勉強や部活も面倒に思えた。

 放課後、担任の野口貴弘先生(44)が家を訪ねてきた。休む理由は聞かず、学校に来いとも言わない。「メシ食ってっか?」と、ときどき栄養補給のゼリーを持ってきてくれた。

 夏休み明け。車で送ってもらったときに父の話題になった。「お父さん、がんばってるなあ」。先生はそう言った後、亡くなった自分の父の話をした。

 「俺は悩んだとき、おやじならどうするかって心の中で会話するんだ。目の前にはいないけれど、いつも支えられてる気がする」

 このころ、父が震災の体験を記した本を出した。親戚宅にも何冊か届いていた。手にとった。

 父は母の死を1カ月半伏せていたが、本にはその理由が書かれていた。

 《肌の色が黒く変わってしまっていた。子どもたちは「お母さんに会いたい」と言うはず。でも絶対に見せてはいけない。きれいなままのお母さんのイメージだけを子どもの一生の宝物にしてやりたい》

 父の思いを初めて知った。

 秋が始まるころ、学校を休むこともなくなった。

 2年生になるとバスケットボールの部活に熱中した。3年生では生徒会の放送委員長になり、運動会のリーダーになった。

 高校に入り、バスケの大会の会場で母を思い出した。小学生のころ、母が応援にきてくれた場所だった。「しっかりしなさい!」。声が聞こえるような気がした。

     ◇

 いまは大船渡高校の2年生。父は朝、弁当をつくり、部活が終わる夜には迎えにきてくれる。

 車の中でいろいろなことを話す。成績のこと、進路のこと。

 「震災前の元の街をつくるんじゃなくて、新しい街をつくりたい」。父は復興のことも熱っぽく語る。

 テレビで仮設住宅の人が「復興が遅い」と話すのを聞くと、父が責められているような気持ちになる。中傷もある。

 自分は政治家になりたいとは思わない。でも、この街の将来を支える人間になりたい。大学で勉強して、起業するのが目標だ。(杉村和将)



6年生になるはずだった娘、空気のようにそばにいる

2万を超える命を奪った東日本大震災から5年。残された人たちは大切な人のおもかげを追いながら日々を過ごしてきた。11日、抱いてきた思いを亡き人に伝えた。

 宮城県石巻市の西城江津子さん(41)は夫靖之(やすし)さん(47)や3人の子どもたちと、区画整理事業で土盛りされた市内の丘のふもとを訪れた。次女春音(はるね)ちゃん(当時6)が、最後にいた場所だ。

 《命日はここに来ないと気がすまないの。天国で楽しく過ごしていてね》

 2011年3月11日。大きな揺れに襲われて約40分後、丘の中腹にある日和(ひより)幼稚園に駆けつけた。送迎バスは春音ちゃんたちを乗せて、海の方向に出た後だった。

 園には、津波でずぶぬれになったバスの運転手が1人で戻ってきた。「どうして!」。運転手と一緒に海の方に向かった。遠くから「助けてー」と女性の叫び声が聞こえた。街が海にのまれ、西から東へ流れていくのが見えた。

 3日後、津波とともに起きた火災で焼けたがれきの中から、黒焦げのバスが見つかった。大人の歯に半分生え替わった上の前歯と、隣の歯の抜けた跡でかろうじて我が子とわかった。しゃがみこみ、泣き叫んだ。

 《120センチあった体が小さくなって。抱きしめたかったけど、壊れてしまいそうでできなかったよ》

 自宅は幸い、床上浸水ですんだ。だが、1歳半年上の長女は、いつも春音ちゃんと一緒に遊んでいた人形を手にしなくなった。4歳下の長男は「はるちゃんは?」と思い出したように聞いてきた。

 5カ月後、他の園児の遺族とともに、園側を相手取って訴訟を起こした。春音ちゃんの命が奪われた理由を追い求めることで、心の穴を埋めようとした。長女たちにはゲームを渡し、夜中までパソコンに向かった。生活の均衡が崩れていった。

 13年7月に次男が生まれた。春汰(しゅんた)。春音ちゃんが家族の中にいた証しを残すため、春の一字を取った。でも、「はる」の代わりではないという思いから、音は「しゅん」。日常を取り戻すきっかけをくれたのが、ぐずり、まとわりつく春汰君だった。

 この年、長女が自ら春音ちゃんの形見のピンクのランドセルを背負うようになった。それまで、靖之さんから「はるも学校さ連れてってやって」と頼まれても拒み、仏壇の横に置かれていた。友だちには「妹のなんだ」と話したという。長男は春音ちゃんより体も大きくなった。

 子どもたちは日々成長している。

 春音ちゃんの遺骨は一人きりにさせたくないと、今も仏壇にある。傍らには近所の文具店で昨年3月に買った小学校の名札。「五年一組」と書いてある。

 4月には春音ちゃんも6年生になるはずだった。

 《はるがどんな6年生になっているのかは想像できないの。同じ顔のまま、背だけ大きくするしかない。それが寂しい。でも、いつも空気のようにそばにいる》(茂木克信)




「原発に頼らない社会を」 首相官邸周辺に6千人

東日本大震災から5年の11日夜、脱原発を求める集会が首相官邸周辺であった。市民ら約6千人(主催者発表)が「再稼働反対」「事故は終わっていない」と訴えた。

 原発事故後、毎週金曜夜に首相官邸前で抗議行動を続ける市民団体「首都圏反原発連合」が主催し、デモはこの日で187回目。祖父母が福島県に住む津田塾大2年の溝井萌子さん(20)は「原発に頼らない社会をつくるために声を上げ続けたい」と話した。

 小泉純一郎元首相は同夜、都内であったドキュメンタリー映画「日本と原発 4年後」の上映会であいさつに立ち、「将来原発ゼロで日本経済が発展していけるよう、粘り強く脱原発運動を続けて欲しい。国民の声が政治を変える」と語った。

 大阪では午後6時すぎ、関西電力本店周辺に原発再稼働に反対する市民ら約200人が集まり「すべての原発、いますぐ廃炉」などと声をあげた。

 大津地裁が関西電力高浜原発3、4号機の運転を差し止める仮処分決定を9日に出したばかり。大阪府高石市の病院職員、阪口政雄さん(47)は「関電は仮処分決定に異議申し立てをしないでもらいたい。人間が原発を扱うのは無理だ」と話した。



台北でも震災追悼式 日台首脳、異例の親書やりとり

東日本大震災に200億円以上の義援金を寄せた台湾では11日、在住日本人らが台北市内で追悼の式典を開いた。一方、台湾の外交部は、馬英九(マーインチウ)総統が安倍晋三首相に対し、先月6日の台湾南部の震災への支援に謝意を示す親書を送ったと発表した。外交関係のない日台の首脳が親書をやりとりするのは極めて異例だ。

 台湾の先月の地震では、台南市でマンションが倒壊するなどし、117人が死亡。安倍首相が馬氏に支援を申し出る親書を送り、日本政府は台湾赤十字に120万米ドル(約1億3500万円)の緊急無償資金協力を決めた。馬氏の親書はこの返書に当たる。外交部によると、日本政府と市民に謝意を表明し、「友好協力関係をさらに進めたい」などとする内容だ。

 東日本大震災の追悼会は台湾日本人会などが主催し、約200人が出席した。日本の対台湾窓口機関、交流協会台北事務所の沼田幹夫代表(大使に相当)は「台湾の皆様から物心両面の温かく心強い支援をもらった。感謝の念は色あせず、心に刻み込まれている」とあいさつした。

 また、宮城県南三陸町では津波で公立病院が壊滅し、台湾から22億2千万円の支援を受けて昨年12月に町立病院を開いた。式典では、同町の佐藤仁町長が「未来への希望、光を与えられた」と語るビデオメッセージも流された。(台北=鵜飼啓)



福島廃炉「誰かがやらんと」 作業員の自負といらだち

原発事故のあった福島で、今も全国から来た労働者が廃炉や除染の作業をしている。放射能の爪痕を目の当たりにした衝撃、復興を支えているという自負、進まない原状回復へのいらだち。遠く九州から向かった人たちに心境を聞いた。

 福島県広野町と楢葉町にまたがるサッカー施設「Jヴィレッジ」。東京電力福島第一原発の事故後、収束作業の拠点となってきた。午前6時過ぎに訪れると、第一原発行きのバスを待つ作業員の長い列がのびる。原発へ至る国道6号は早くも渋滞気味。朝焼けに照らされ、「八戸」ナンバーのトラックや「鹿児島」ナンバーのワゴンなどが続く。

 「1F(いちえふ)は北海道や九州、関西の人が多い」。作業員らが「1F」と呼ぶ第一原発で、2012年秋から働く北九州市の男性(53)は話す。地元で勤める建設会社の社長から「人手が足りんらしい。行ってくれんか」と声がかかった。

 断る同僚もいる中、男性は引き受けた。高い賃金が大きな理由だが、東日本大震災後に仙台市での復旧工事に携わった経験も後押しした。空港で横転した飛行機、波うつようにねじれた道路が目に焼き付いている。「震災の後始末は、誰かがやらんといかんから」

 最初は4号機の廃炉作業にあたった。男性の会社は3次下請け。1日1万円の「危険手当」は途中で抜かれ、男性が受け取ったのは2千円だった。

 放射線を通しにくい鉛のベストも着た。線量計はベストの外側に着けなければ正確に測定できない。だが、1次下請けの現場監督から「すぐにメーターが上がって作業が続けられなくなるから隠して」と内側に着けるよう指示された。

 ピンハネや線量のごまかしは報道で問題になり、かなり改善された。原発内の線量は下がり、全面マスクを外した軽装備で動ける区域も少なくない。

 一方で、復旧・復興の手応えはない。敷地内の汚染水タンクは日に日に増えていく。国道6号から原発のある大熊、双葉両町の市街地への立ち入りもかなわない。「よそ者の自分が言うんはおかしいが、じれったい」。国道沿いに建つのはパチンコ屋やコンビニ、プレハブの寮ばかり。「作業員の街」に変わっていく被災地に違和感を覚える。

 原発作業員に向けられる地元の視線も複雑だ。男性は、いわき市にある寮の近所の人から「4年もいたら、ふた財産くらいできたでしょう」と皮肉な調子で言われた。「金だけじゃない。みんなそれぞれ、ここの役に立ちたいと、どこかで思っているのに」

 仕送りを続ける故郷の母は、福島の地震のニュースや雪の天気予報をテレビで見ては、心配して電話をかけてくる。引き揚げの潮時を考えるようになった。

 昨年6月から福島県内で除染にあたる男性(48)は佐賀市の土木会社をやめて転居してきた。1万6千円の日給にひかれたのと「被災地を自分の目で見たい」という思いからだ。一人暮らしの身軽さもあった。

 最初の除染は全村避難が続く福島県飯舘村。日中の住民の出入りは可能だが、人影はまばら。雪の降る中、かじかむ手で墓石をぬぐいながら、「放射能の影響は、5年ではなくならないのか」と実感した。

 勤めたのは3次下請けをしている福島市の会社。社員50人のほとんどは県外出身で、3分の1は九州。北海道や沖縄も多かった。

 20年に向けて東京五輪の工事が本格化する。「これからは東京のほうが金がいいんじゃないの」。同僚たちのこんな会話を耳にするようになった。男性も五輪の仕事を考えるが、「復興の人手」も気にかかる。

 他県の者が地元のつらさを本当には理解できないと思う。「ただ、一緒に仕事して、ふれあうことはできる」。そんな日々に、やりがいも感じる。「『復興』の仕事がある限り、ずっとこっちで暮らしてもいい」と思っている。(奥村智司)

     ◇

 〈福島第一原発事故の収束や除染に関わる作業員数〉 東京電力によると、原発内で廃炉作業などに従事する作業員数は今年1月時点で約6370人。おおむね半数が県外から来ている。国や福島県によると、県内で除染作業に携わる人数は、今年2月時点で国の直轄地域が約1万2千人、市町村の管轄地域で約1万4千人で、計約2万6千人。
by nsmrsts024 | 2016-03-11 04:46 | 朝日新聞・綜合、政治

千年に一度の巨大津波と原発事故による核災害


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