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2016年5月28日(土)・東日本大震災から5年2ヶ月と17日

3.11 東日本大震災と福島第一原発爆発事故から5年と2ヶ月
1000年に一度の巨大津波と66年後にまた人が起こした核災害の記録
(東日本大震災と放射能災難から直後の1年間を顧みる)
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3.11東日本大震災       津波 211



2011年4月8日(金)・福島第一、復旧作業遅れる見込み 余震の被害確認急ぐ
今回の余震で、東北地方や茨城県にある原発や核燃料貯蔵プールに異常は確認されていない。

 東京電力によると、深刻な事態が続く福島第一原発(福島県大熊町、双葉町)では、作業員が退避して復旧作業が一時中断したが、8日朝現在、新たな被害は確認されていない。

 地震発生時、2号機の取水口近くで作業員13人が放射能汚染水の流出を防ぐ作業に当たっていた。1、2号機の中央制御室にも2人がいたが、津波注意報を受けて、いずれも高台にある免震重要棟に戻って無事だった。5、6号機の制御室にも19人がいたが、けが人はなかった。

 1~3号機の原子炉への注水は続いており、炉内の状況にも変化は見つかっていない。1号機の格納容器に水素爆発を未然に防ぐための窒素注入も継続している。坑道のたまり水は、水位がやや上昇しているが、異常は見られないという。ただ、8日朝も地震の被害確認に追われるなど、復旧作業は遅れる見込みだ。

 気象庁によると、同原発のある双葉町では震度5弱の揺れを記録した。

 原子炉が冷温停止している福島第二原発(同県楢葉町、富岡町)にも新たな異常は見つかっていないという。

 東北電力によると、女川原発(宮城県女川町、石巻市)では、3月11日の東日本大震災で1~3号機がいずれも停止中だった。今回の余震で、送電線によって外部から送られている稼働中の4回線の電源のうち3回線が遮断され、残る1回線で1~3号機の原子炉の冷却を続けている。

 各号機の使用済み核燃料貯蔵プールでは、地震の揺れで冷却装置が自動停止したが、すぐに再起動した。プールの水があふれたり、原子炉建屋で水漏れが生じたりしているのが見つかったが、周囲の放射線の値に変化はみられない。

 東北電力の東通原発(青森県東通村)では、稼働中の外部電源2回線がいずれも遮断された。一時的に非常用ディーゼル発電機に切り替わったが、8日午前3時半に外部電源が復旧、使用済み核燃料貯蔵プールの冷却を続けている。同原発は東日本大震災の当時、定期検査中で、原子炉に燃料棒はない。
日本原燃の使用済み核燃料再処理工場(青森県六ケ所村)でも、外部からの電源供給が途絶え、非常用ディーゼル発電機で、使用済み燃料貯蔵プールの冷却を続けている。同日中にも電源は復旧する見込みという。

 プールには使用済み燃料棒集合体が1万1千体余り保管されているが、いずれも取り出してから年月が経過しており、同社では「発熱量はそれほど大きくない」としている。

 東日本大震災以来、原子炉が停止している日本原電の東海第二原発(茨城県東海村)では、外部電源に特に影響はなかった。



[2016年、世界と日本・今日この頃]

2016年5月28日]
「恐ろしい力に思いをはせるために」 オバマ氏演説全文

オバマ米大統領は27日、現職の米国大統領として初めて被爆地・広島を訪問し、演説した。「核なき世界」の実現に向け、「1945年8月6日の朝の記憶を薄れさせてはなりません」と訴えた。朝日新聞による全文の日本語訳は次の通り。

     ◇

 71年前、明るく、雲一つない晴れ渡った朝、死が空から降り、世界が変わってしまいました。閃光(せんこう)と炎の壁が都市を破壊し、人類が自らを破滅させる手段を手にしたことを示したのです。

 なぜ私たちはここ、広島を訪れるのか。私たちはそう遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力に思いをはせるために訪れるのです。10万人を超す日本人の男女そして子どもたち、何千人もの朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために訪れるのです。彼らの魂が私たちに語りかけます。私たちに内省し、私たちが何者なのか、これからどのような存在になりえるのかをよく考えるように求めているのです。

 広島を際立たせるのは戦争の事実ではありません。暴力を伴う紛争は太古の昔からあったことが古代の遺物からわかります。火打ち石から刃を作り、木からやりをつくることを学んだ私たちの祖先は、これらの道具を狩猟だけでなく、人間に対しても使ったのです。食糧不足、富への渇望、国家主義的な熱烈な思いや宗教的熱情に突き動かされ、世界のどの大陸でも文明の歴史は戦争にあふれています。いくつもの帝国の興亡があり、人々は服従を強いられたり、解放されたりしました。それぞれの時期に罪なき人たちが犠牲になり、その名は時がたつにつれて忘れられていきました。

 ログイン前の続き広島と長崎で残酷な終結を迎えることになった世界大戦は、最も豊かで、最も力の強い国々の間で戦われました。それらの国の文明は世界に偉大な都市や素晴らしい芸術をもたらしました。思想家たちは正義や調和、真実に関する考えを生み出してきました。しかし戦争は、最も単純な部族間の紛争の原因となった、支配や征服をしたいという本能と同じ本能から生まれてきたのです。新たな能力によってその古いパターンが増幅され、ついには新たな制約がなくなってしまったのです。

 数年の間で6千万人もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子ども、私たちと何ら変わりのない人たちが、撃たれ、殴られ、行進させられ、爆撃され、投獄され、飢えやガス室で死んだのです。この戦争を記録する場所が世界に数多くあります。勇気や英雄主義の物語を語る記念碑、筆舌に尽くしがたい悪行を思い起こさせる墓地や無人の収容所です。

 しかし、この空に立ち上ったキノコ雲のイメージのなかで最も、私たちは人間性の中にある根本的な矛盾を突きつけられます。私たちを人類たらしめているもの、私たちの考えや想像力、言語、道具をつくる能力、自然を自らと区別して自らの意思のために変化させる能力といったものこそが、とてつもない破壊能力を私たち自身にもたらすのです。

■「8月6日の記憶忘れてはならない」

 物質的な進歩または社会的革新によって、私たちは何度この真実が見えなくなるのでしょうか。どれだけたやすく、私たちは何かより高い大義の名の下に暴力を正当化してきたでしょうか。あらゆる偉大な宗教が愛、平和、公正への道を約束しています。しかし、いかなる宗教も信仰が殺戮(さつりく)の許可証だと主張する信者から免れていません。

 国家は人々を犠牲と協力で結びつける物語を伝え、顕著な業績を可能にしながら台頭します。しかし、それらの同じ物語は、幾度となく異なる人々を抑圧し、その人間性を奪うために使われてきました。

 科学によって、私たちは海を越えて通信を行い、雲の上を飛び、病を治し、宇宙を理解することができるようになりました。しかし、これらの同じ発見は、これまで以上に効率的な殺戮の道具に転用することができるのです。現代の戦争は私たちにこの真実を教えてくれます。広島がこの真実を教えてくれます。

 科学技術の進歩は、人間社会に同等の進歩が伴わなければ、人類を破滅させる可能性があります。原子の分裂を可能にした科学の革命には、道徳上の革命も求められます。だからこそ、私たちはこの場所を訪れるのです。私たちはここに、この街の中心に立ち、原子爆弾が投下された瞬間を想像しようと努めます。目にしたものに混乱した子どもたちの恐怖を感じようとします。私たちは、声なき叫びに耳を傾けます。私たちは、あの恐ろしい戦争で、それ以前に起きた戦争で、それ以後に起きた戦争で殺されたすべての罪なき人々を思い起こします。

 単なる言葉だけでは、こうした苦しみに声を与えることはできません。しかし私たちは、歴史を直視する責任を分かち合っています。そして、こうした苦しみの再発を防ぐためにどうやり方を変えるべきなのかを問わねばなりません。いつか、証言するヒバクシャ(被爆者)の声が聞けなくなる日がくるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を薄れさせてはなりません。その記憶は、私たちが自己満足と戦うことを可能にします。それは私たちの道徳的な想像力を刺激し、変化を可能にします。

 あの運命の日以来、私たちは希望をもたらす選択をしてきました。米国と日本は同盟だけでなく、私たちの市民に戦争を通じて得られるよりも、はるかに多くのものをもたらす友情を築きました。

 欧州諸国は、戦場を通商と民主主義の絆に置き換える連合を築きました。抑圧された人々と国々は解放を勝ち取りました。国際社会は戦争を回避し、核兵器の存在を制限し、縮小し、最終的には廃絶するために機能する組織と条約をつくりました。

 それでもなお、世界で目の当たりにする国家間のあらゆる攻撃的行動、あらゆるテロ、腐敗、残虐性、抑圧は、私たちの仕事に終わりがないことを物語っています。

■「広島と長崎 道徳心の目覚めに」

 私たちは、人間の悪をなす能力をなくすことはできないかもしれません。だからこそ、国家や私たちが作り上げた同盟は、自衛の手段を持たなければなりません。しかし、私の国のように核を保有する国々は、恐怖の論理にとらわれず、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければなりません。

 私の生きている間に、この目標は実現できないかもしれません。しかし、たゆまぬ努力によって、悲劇が起きる可能性は減らすことができます。私たちは核の根絶につながる道筋を示すことができます。私たちは、ほかの国への核拡散を止め、狂信者たちから死をもたらす(核)物質を遠ざけることができます。

 しかし、それでもまだ十分ではありません。なぜなら、粗製のライフルや樽(たる)爆弾でさえ、どれだけ恐ろしい規模の暴力を起こせるのか、私たちは世界で目の当たりにしているからです。私たちは戦争そのものへの考え方を変えなければいけません。それによって、外交を通じて紛争を防ぎ、すでに始まった紛争を終わらせる努力をしなければなりません。相互依存の高まりが、暴力的な競争の原因になるのではなく、平和的な協力を生むものだと考えるのです。そして、私たちの国家を、破壊能力によってではなく、何を築き上げるかで定義づけるのです。

 そして、おそらく何にもまして、私たちは一つの人類の仲間として、互いの関係をつくり直さなければいけません。なぜなら、そのことも人類を比類なき種にしているものだからです。私たちは遺伝情報によって、過去の間違いを繰り返す運命を定められているわけではありません。私たちは学び、選ぶことができます。人類が共通の存在であることを描き、戦争をより遠いものにし、残虐な行為は受け入れられがたいような、異なる物語を私たちは子どもたちに伝えることができます。

 私たちはこうした物語を、ヒバクシャの中にみることができます。原爆を投下した爆撃機のパイロットを許した女性がいます。なぜなら、彼女は本当に憎いのは戦争そのものだと分かっていたからです。ここで殺された米国人たちの家族を捜し出した男性がいました。なぜなら、彼は彼らの喪失は自分たちの喪失と等しいと信じていたからです。

 私の国の物語はシンプルな言葉から始まりました。「すべての人は等しくつくられ、生命、自由、幸福追求を含む、奪われることのない権利を創造者から授けられた」。そうした理想を実現するのは、たとえ私たちの国内であっても、国民同士であっても、決して簡単なことではありませんでした。しかし、その物語へ忠実であり続けることは、努力に値することです。大陸を越え、海を越えて追い求められるべき理想なのです。すべての人の減らすことのできない価値。すべての命は尊いという主張。私たちはたった一つの人類の一員なのだという根本的で欠かせない考え。これらが、私たち全員が伝えていかなければならない物語なのです。

 それが、私たちが広島を訪れる理由です。私たちが愛する人のことを考えるためです。朝起きて最初に見る私たちの子どもたちの笑顔や、食卓越しの伴侶からの優しい触れあい、親からの心安らぐ抱擁のことを考えるためです。私たちはそうしたことを思い浮かべ、71年前、同じ大切な時間がここにあったということを知ることができるのです。亡くなった人たちは、私たちと変わらないのです。

 普通の人たちは、このことを分かっていると私は思います。普通の人はもう戦争を望んでいません。科学の驚異は人の生活を奪うのでなく、向上させることを目的にしてもらいたいと思っています。国家や指導者が選択をするにあたり、このシンプルな良識を反映させる時、広島の教訓は生かされるのです。

 世界はここで、永遠に変わってしまいました。しかし今日、この街の子どもたちは平和に暮らしています。なんて尊いことでしょうか。それは守り、すべての子どもたちに与える価値のあるものです。それは私たちが選ぶことのできる未来です。広島と長崎が「核戦争の夜明け」ではなく、私たちが道徳的に目覚めることの始まりとして知られるような未来なのです。




核廃絶、手を取り合って オバマ氏、歩み寄り花捧げる

 「核なき世界」の実現を訴えたプラハ演説から7年。オバマ米大統領が27日、現職の米大統領として初めて被爆地・広島を訪れた。慰霊碑に花を捧げ、被爆者と対話し、核廃絶への道を歩き続けると誓った。被爆者は「これからが大切」と、核超大国のリーダーの背中を押した。

 日没まで、あと2時間。気温は25度を超え、夏のような暑さだった。

 午後5時25分、西日が差す平和記念公園。オバマ大統領が黒い専用車から濃紺のスーツ姿で降り立った。

 まず訪れたのは広島平和記念資料館(原爆資料館)。被爆地が来訪を待ち望んだ場所だった。被爆10年後、12歳で亡くなった佐々木禎子さんが白血病の回復を信じて折り続けた折り鶴などの遺品を見た。

 オバマ氏は自ら折った和紙の折り鶴4羽を資料館と子どもたちに渡した。

 「私たちは戦争の苦しみを経験しました。共に、平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」。芳名録に英語で書き、署名をした。

 約10分後、館を出たオバマ氏の表情は厳しく、口を固く結んだまま。安倍晋三首相と並び、原爆死没者慰霊碑へ。74メートルの石畳の参道を進む間も表情を変えなかった。

 「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」。そう刻まれた碑の前で立ち止まった。昨年8月5日までに亡くなった原爆の犠牲者29万7693人の名前を記した名簿が石室に納められている。

 オバマ氏は両手で白い花輪を受け取ると、ゆっくり歩み寄って手向けた。10秒ほど静かに目を閉じた。

 ログイン前の続き赤く燃える平和の灯、その先に原爆ドームが見える。それを背に、マイクの前で演説に立った。

 「71年前、明るく晴れ渡った朝、死が空から降り、世界が変わった」。あの日を振り返り、問いかけた。

 「なぜ私たちは広島を訪れるのか」。公園になったこの場所は原爆投下の直前まで商店や住宅が並び、約6500人が暮らしていた。「この街の中心に立ち、原爆投下の瞬間を想像しようと努めます」

 オバマ氏の演説は17分間に及び、日が陰り始めた。

 広島を訪れる理由は「私たちが愛する人のことを考えるため」と述べた。朝起きて見る子どもの顔、パートナーとの食卓、抱きしめてくれる親……。「71年前、同じ大切な時間がここにあった」。そう話し、しばらく沈黙した。

 最後に「私たちが選べる未来」を語った。「広島と長崎は『核戦争の夜明け』ではなく、道徳的な目覚めの始まりです」(平井良和、小河雅臣)

■プラハの約束「一緒に頑張る」」

 演説を終えたオバマ氏。招待席の最前列で聴いていた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表委員、坪井直(すなお)さん(91)にゆっくり歩いて近づいた。

 坪井さんは左手に杖をついて立ち上がり、右手を差し出して握手をした。

 「これからが大切なんですよ。来年1月に辞めても広島に来て、繰り返し見たり聴いたりしてください」

 坪井さんが通訳を介して思いを伝えると、オバマ氏の握る手が一層強くなった。オバマ氏は「ありがとう」と返したという。

 坪井さんは20歳の時、爆心地から1・2キロで被爆し、腕や腰から大量に出血。はうように避難した橋のたもとに、小石で「坪井はここに死す」と記した。

 「アメリカ憎しの思いが腹の底から煮えたぎった」。中学教師時代は「ピカドン先生」を名乗り、生徒らに被爆体験を語った。「アメリカには、こんちくしょーって思っていた」

 米国でも10回以上、被爆体験を語ってきた。原爆投下を正当化する意見も投げかけられた。それでも、相手の話をじっくり聞いて話し合えば、理解しあえると感じるようになった。

 憎しみが消えたわけではない。でも、「オバマさんが原爆を落としたわけではない。責めても仕方ない。人類のために手を取り合って、核廃絶に取り組むほうがええけえ」。そう思えるようになった。

 被爆者の平均年齢は80歳を超えた。しかし、核廃絶への道のりは遅々として進まず、焦りが募る。

 オバマ氏の広島訪問に勇気づけられたという坪井さんは、オバマ氏に言った。

 「プラハのあれ(演説での約束)が残っとるはずじゃ。被爆者は、あなたと一緒にがんばる」

 オバマ氏は白い歯を見せて笑顔を浮かべた。

 式典には被爆者7人を含め約100人が出席した。

 広島の原爆で死亡した米兵捕虜の研究を約40年にわたって続けてきた歴史研究家の森重昭(しげあき)さん(79)=広島市西区=も、その一人。

 オバマ氏と言葉を交わすうちに感極まり、涙がにじんだ。言葉に詰まったその時、オバマ氏がそっと肩を抱き寄せ、背中をやさしくたたき、さすった。

 「温かい手だった。僕の調査を誰も評価してくれなかったけれど、話を聞いてもらって努力が報われた気がした」

 森さんは8歳の時、爆心地から2・5キロの橋の上を友人と歩いていて、爆風に吹き飛ばされた。

 被爆米兵の調査を始めたのは、被爆者が描いた原爆投下直後の絵に、米兵が描かれていたのを資料館で見たのがきっかけ。日米の公文書や元軍人の手記、当時の新聞など大量の資料を集めた。渡米して元捕虜から話も聴いた。広島市内の旧日本軍の施設に収容中の米兵捕虜12人が死亡したという見解に行き着いた。

 「かつては敵国だったが同じ被爆者」。原爆死没者名簿への米兵の名前の掲載を遺族の代理で申請し、認められた。爆心地近くの軍施設跡地には、米兵捕虜を慰霊する銘板を自費で設置した。

 米国でも、被爆米兵は「忘れられた被爆者」。オバマ氏の広島訪問が契機になり、その存在がもっと広く知られるようになることを森さんは願う。「そうすれば、米国人の原爆への見方も変わるのではないか」(神沢和敬、泉田洋平)
by nsmrsts024 | 2016-05-28 05:49 | 朝日新聞・綜合、政治

千年に一度の巨大津波と原発事故による核災害


by nsmrsts024